前回の掲載が2月12日でしたから、何と早くも10ヶ月のブランクが出来てしまいました。 この間、掲示板OCRには数百の相談が寄せられそれに対する回答アドバイス意見に追いまくられた1年となり、とうとう今年も早、年の瀬を迎えてしまいました。 父母の皆様向けに不登校の全体をざっと見渡せるページにしようと言うことで始めた「独り言」ですが、掲示板OCRに寄せられたご相談の幅広さを考えますと、とてつもない課題に挑んでしまったものだという感慨に改めて圧倒される思いです。 まだまだ書かなくてはならないことが山と残っているのですが、今回は子供と親との絆について、考えさせられたことを書いてみたいと思います。
親子の絆の回復を!
<瀕死の絆> 多くのご相談に接していると、人間の絆(キズナ)がどうしてこんなにも弱くか細いものになってしまったのかという思いに捕らわれます。親子の絆、家族の絆、子供と先生の絆、子供同士の絆、子供と大人との絆。こうして子供を中心に据えて子供からの人間的な繋がりを考えるとき、不登校は人間的な絆が瀕死の状態にあるために出てくる社会現象なのではないかと思えてくるのです。 この中の絆のうち、親子の絆と他にもう一つ盤石なものがあれば、不登校のかなりの部分が救われるのではないかと感じられるときがあります。 親や先生や大人の側から子供への働きかけはもちろんですが、どうしたものか子から親へ、子から先生へ、子から大人一般への働きかけがとても弱くか細く貧しいものになってしまったのではないかと思えます。 子供の側からのこのような大人へのか弱い働きかけというのは、もちろん大人の側に問題があるに違いないのですが、改めて真正面から受けとめていただくために、私が日々の面談やカウンセリングから聞き及ぶ子供たちの冷めた反応を、いくつか下記に列挙しておきたいと思います。
<子供の言い分> ・親に何を言っても無駄 ・親は自分のことを何も分かっていない (子供を理解しようと努力するつもりがそもそもない) ・お父さんと話した事なんて何年もない ・頼んだことはしてくれないのに頼みもしないことを勝手にやる ・もう子供じゃないのに分かってくれない (一個の人格として認めてくれていない。子供は親の付属物ではない) ・親に対しても正直な自分を素直に出すことなんか出来ない (・・・・分かってもいないのに怒るだけだから) (・・・・いい子にしている自分を可愛がっているだけだから) ・親は世間体ばかり気にして自分のことを考えてはくれない ・お父さんもお母さんも好きじゃない ・親は何を言っても信用してくれない (こっちも信用していないし・・・) ・親とどうやって付き合っていけばいいのか分からない 親に対するこんな反応は、親に対する不満や非難を通り越して半ば「あきらめ」になっているようにさえ感じます。 もちろん、「親」や「お父さん」という言葉を「先生」や「大人」という言葉に置き換えても、子供にとってはそのまま通用するのだろうと思います。 付け加えると、上記に列挙した子供の反応ですが、中学生や高校生のものだけではありません。小学生もしばしば同じ趣旨の発言をしているのです。
<親子間のメール> 親子の絆のはかなさは親子が会話ではなくて携帯で意志疎通を図るという事態に端的に現れています。 同じ屋根の下にいていつでも会話が出来るはずなのに面と向かって話し合うことをあえて避け、携帯のメールで意志疎通や意思確認をやっている親子が相当数いるのが現実です。 子が不信から親を避け親は無理解から子を怖れるという構図は、親も子もお互いにどうやって付き合えばいいのか分からないと言う、はかなくか細く脆い親子の絆を象徴しているかのようです。 現代の子供は想像以上に孤独なのです。
<大人同士の絆の貧しさ> こうした子供の孤独というのは世間一般の世知辛さ、無関心、自己中心の価値観の直接の影響ですし、大人同士の絆が非常に貧しくなっていることの反映でもあるようにも思えます。 また学校では、生徒の一人ひとりとそれぞれ一本ずつの絆を結べる教員が非常に少なくなってしまいました。一人ひとりと繋がった絆の束で全体を導く代わりに、クラス全員を一つに束ねてコントロールしようとするから当然はみ出してしまう子も出るわけで、そのはみ出した子を邪魔者異分子として排斥するからクラスにいじめがはびこってしまいます。そうした未熟な教員同士が互いに工夫し助け合うという同僚間の絆はないに等しい上、指導できる管理職もいないと来ていますから教室が荒れてしまうと言うのも無理からぬ話のように感じられます。 こうして少し考えてみると、心理的な原因があって不登校に陥る子達にほぼ共通する人間不信や対人恐怖のバックグラウンドがかなりはっきりと見えてくるのではないでしょうか。
<親子の絆を断ちきる不登校> しかしながら、こうやって子供と子供を取り巻く大人達との様々な絆をあれこれ言っても切りがありませんので、ここではズバリ親子関係に絞って話を進めたいと思います。不登校を乗り切って行くには何にもまして親子の絆の回復が大前提になるからです。 私が言っているのは、不登校の克服には親子の絆が必要だという程度のことではありません。 不登校というのは子供にとって対人関係の破綻から直接生じた結論です。親子関係が極めて健全なのに、過酷ないじめなどで不登校になると言うことがありますが、その場合でも取り戻さなければならない一番最初の人間関係は親子の絆です。なぜなら、不登校というのは健全なはずの親子の絆までもが激しく傷つけられることなのですから。 これまで、この「独り言」のなかで「第三者との関わりの重要性」ということをたびたび強調してきました。不登校の子は第三者を「対人関係の窓」として社会との最初の人間関係を取り戻していくのですが、親子の絆が回復されないと子供はまず第三者と会おうとはしないのです。 親子の絆が傷つけられたと言う場合もあるでしょうし、最初からないに等しいという場合もありますが、いずれにせよ第三者との関わりを実現しようとすると、最低限、子供が親の愛情を肌身に感じてその思いを受け入れる、つまりたとえ細くとも親子の絆が不可欠なのです。 このことに逃げ道はありません。
<苦しむお母さんへ> マザー・テレサが言っています。 「あなたが何をしたかではなく、あなたがどれだけ(本当の)愛を込めたかが重要なのです。」
子供が不登校になると母親の皆さんは涙ぐましい努力をされます。 脅したりすかしたり、叱ったり励ましたり、泣いたり喚いたり、子供が学校に行きさえすれば問題は全て解決してしまうかのごとくです。 うまく行かないと見るや、仕事を辞め、ほとんど片時も離れず一緒にいて上げて、気分を聞き、体調を聞き、登校するかどうか子供の意志を聞いては、子供の返事に一喜一憂します。 挙げ句の果てに、自分のしてきた子育てを振り返って悲嘆と絶望に打ちのめされてしまいます。元気に登校するよその子を見ては涙に暮れる毎日が・・・・。 でも、子供は果たしてどの様に感じているでしょうか。 ・母親は自分のことを何も分かっていない (子供を理解しようと努力するつもりがそもそもない) ・頼んだことはしてくれないのに頼みもしないことを勝手にやる ・もう子供じゃないのに分かってくれない (一個の人格として認めてくれていない。子供は親の付属物ではない) ・母親に対しても正直な自分を素直に出すことなんか出来ない (・・・・分かってもいないのに怒るだけだから) (・・・・いい子にしている自分を可愛がっているだけだから) ・お母さんは好きじゃない ・母親は世間体ばかり気にして自分のことを考えてはくれない こんなことを感じているとは言えないでしょうか。
<何かが噛み合っていないのでは> もしそうかもしれないと思ったら、その必死の努力が本当の愛情から出ているのか一度疑った方がいいのではないでしょうか。 それは子供に対する愛情でしょうか。それとも自分に対する愛情でしょうか。 子に対する本当の愛情であれば、まず学校に行きたくとも行けない我が子の存在を丸ごと受け入れないでいられるでしょうか。 「いいよ、いいよ、安心して休みなさい」と言わずにはいられないのではないでしょうか。「学校に行けようが行けまいがあなたが居てくれるだけでお母さんは嬉しい」と言わずにいられましょうか。 子供の痛み苦しみ辛さにまず共感しないわけにはいかないのではないでしょうか。 学校に行かせようとするのではなく、子供のこころを元気にしようと思ったら、子供の前で泣いて暮らすことなど出来るでしょうか。 ただ一緒にいる「時間」を増やしただけで、本当の愛を込めたことになるでしょうか。 子供はまさしくそこのところを感じ取っているのです。 本当の愛を込めない限り母子のこころの絆が回復されることはありません。
<忙しいお父さんへ> 今度は忙しいお父さんに一言申し上げたいのです。 私もいっぱしの企業戦士として20年以上のサラリーマン生活を送りました。サラリーマンの時間のなさ、気持ちの余裕のなさは良く知っています。最近は合理化とリストラで企業自体が生き残りを迫られる中、家庭人としての時間までもが実質的に削られるような事が多いのではないでしょうか。
<これ以上何が欲しいのか> こうした厳しい現実を反映してか私のところに相談に見えるお父さん方がこういう趣旨の発言をされることが少なくありません。 「私は子供のことはもちろん妻のことも良く理解できないのです。私は家族に必要なものはすべて与えてきました。何一つ不自由はさせなかったつもりです。これ以上何が欲しいというのでしょうか?」
<男の人生> 男は色々な仕事に追われながら、それぞれの仕事に優先順位をつけて時間を割り振ります。つまりどれだけの時間を割り振っているかで、その仕事の重要性と価値とを測ることが出来るでしょう。 男にとって時間は貴重です。時間は一日24時間、つまり決められた分しか与えられていません。お金なら増やすことが出来ますが、時間は増やすことが出来ませんからね。 例えば取引先のために自分の時間を使う時、男はもう二度と戻ってくることのない自分の人生の一部を相手に与えていることになります。 この意味で男の時間は男の人生そのものです。
<一つの質問> では、ここで一つ質問させてください。 「あなたはどれだけの時間を我が子に与えていますか?」 この質問は、こういう風に言い換えることも出来ます。 「あなたは、もう二度と戻って来ることはない自分の人生のどれくらいの部分を我が子に与えていますか?」
子供との絆は重要であると口で言うだけではダメなのです。 また、ソファに寝ころびながらの時間、新聞を読みながらの時間、テレビを見ながらの時間、こういう時間では十分ではありません。 こういう時間しか与えられないとき子供は何を感じるでしょうか。 ・父親に何を言っても無駄 ・父親は自分のことを何も分かっていない (子供を理解しようと努力するつもりがそもそもない) ・お父さんと話した事なんて何年もない ・もう子供じゃないのに分かってくれない (一個の人格として認めてくれていない。子供は親の付属物ではない) ・父親に対しても正直な自分を素直に出すことなんか出来ない (・・・・分かってもいないのに怒るだけだから) (・・・・いい子にしている自分を可愛がっているだけだから) ・父親は世間体ばかり気にして自分のことを考えてはくれない ・お父さんは好きじゃない ・父親は何を言っても信用してくれない (こっちも信用していないし・・・) ・父親とどうやって付き合っていけばいいのか分からない 子供はこんな風に感じているのではないでしょうか。
<疑問の答> 先ほどの疑問に戻りましょう。 「・・・・・これ以上何が欲しいというのでしょうか?」 子供が求めているのは、「あなた自身」です。 自分だけをじっと見つめてくれる「あなたの眼差し」です。 これを他の言葉で言い換えると、「あなたの時間」となるのです。 これだけは何か他のもので間に合わせることは出来ません。
<眼差し> あなたの眼差しは子供にこう言います。 「君は、お父さんにとって、貴重な限りある時間を与えて惜しくないほど大切な大切な人だよ」と。 父子の絆を築こうとしたら実際に時間を与えて子供を愛する他はありません。そしてその時間を稼ぎ出そうとしたら、何かをあきらめなければならないのではないでしょうか。 それは自分の楽しみかもしれません。あるいは自分の仕事(出世)かもしれません。要するに、あなたは父親として犠牲を払わなければならないのです。 でも、犠牲を払わずに子供を愛する事なんて出来るのでしょうか。 愛がなくても子供に与えることは出来ます。しかし、子供に与えることをしないで愛することが出来るとお思いですか。 あなたの子供の眼差しは、まさしくそこをじっと見つめ感じ取っているのです。 |