学校復帰者からのメッセージ卒業生の声

2017年(平成29年)9月末現在で通算300名となった学校復帰者の中から、掲載のご了解を頂いた方のメッセージをご紹介しています。

中2からカウンセリングに来たJ君のインタビュー

Q1J君はいつから不登校になったの?

休み始めたのは中2の夏休み前からです。

Q2不登校の原因は?

母親の過保護ってやつかなあ・・・・・・・・。いま考えるとうちの母親って何でもやってくれちゃって、自分にとって絶対的な存在だったから、逆らうことが出来なかった。言われたとおりにしないとゴチャゴチャと面倒臭いことになってゲームする時間もなくなってしまうから、何でもハイハイと表面的にいい返事をして、都合の悪いことはみんな嘘でごまかしていたんだ。何でも嘘でつじつまを合わせて、親の言うことを完璧に守る良い子を演じていたんだけど、ある時、どうしてもつじつまの合わないことが重なって、にっちもさっちもいかなくなったんだ。まあ詳しい話は出来ないけど、嘘のつきまくりがもう楽しめるレベルを超えてしまって、どうにも身動きがとれなくなった。

Q3身動き取れないってどういう意味?

自分がついた嘘を覚えていなくてはならないから、それが積み重なって凄いストレスになってきた。自分の嘘に騙されている母親に罪悪感があって、特に朝起きると、その日の嘘を確認しなければいけないから、トイレで考えているうちに、トイレから出られなくなったんだ。あたま真っ白状態で何時間もトイレで座っているようになった。学校も休みが増えて部活も休むようになり、本当に体調も悪くなった。学校へ行けば行ったで、友達から「おまえ、ときどきスッゲ、顔しかめるよな、なにそれ?」とか言われたんだ。自分で気が付かないうちにすごく「チック」が出るようになったんだ。

Q4そんな状態でも学校は行っていたんだ?

行っていたけど夏休み明けから休みがどんどん増えて12月からはほとんど行けなくなった。嘘は相変わらずつきまくっていたけどもう限界で、限界が来ると、自分で頭の中を真っ白にして、その真っ白状態の中で休むんだ。

Q5それで、輝け元気!に行ったの?

そう、母親が大門さんと会って来て「相談にのってもらいなさい」って。行ってみたらものすごく話がしやすい人で、ホントに何でも話してしまった。言えないと思っていたアタマ真っ白状態についても、こういう風になるんだと説明したら、「そりゃ、まずい」と言われた。何がまずいのか良く分からなかったけど、とにかく最初の日に「アタマ真っ白状態に逃げ込んじゃいけない。なるべく頑張って、自分自身を見つめろ」って言われたんだ。それから、「無理して学校に行くことはないから休みたいだけ休め」って言われた。だから、最初っから気が楽になったよね。

Q6それで、本格的に不登校になったわけだ(笑)

そうなんだけど、2回目のカウンセリングの時には、「何か隠していることがあるだろ」って言われて、嘘つきまくりの事も言ったんだ。そうしたら「なぜ嘘なんかつくんだ?正直にやっていくのがいちばん楽なのになぜ?」と訊かれて、どうしてもうまく答えられなかった。本当にどうして自分が嘘ばっかしつくようになったのか分からなかった。

Q7それで、本格的に不登校になったわけだ(笑)

そうなんだけど、2回目のカウンセリングの時には、「何か隠していることがあるだろ」って言われて、嘘つきまくりの事も言ったんだ。そうしたら「なぜ嘘なんかつくんだ?正直にやっていくのがいちばん楽なのになぜ?」と訊かれて、どうしてもうまく答えられなかった。本当にどうして自分が嘘ばっかしつくようになったのか分からなかった。

Q8さっき、お母さんの過保護が原因だって言ったよね?

それはカウンセリングが半年も続いてからようやく分かったことなんだ。自分の性格タイプをずいぶん言い当てられたけど、なぜ嘘をつきまくるのかは大門さんにも分からなかったみたい。しばらく経ってから反抗期の話になって「J君は親に反抗しないのか?不満はないのか?」と言う話になって、不満を言い始めたら止まらなくなった。もっとゲームをしたい、もっとカードゲームをしたい、もっとマンガを読みたい、部活仲間ともっと遊びたい、楽器も習いたい、夜遅くまで起きていたい、勉強はしたくない、何から何まで不満だらけだということが分かって自分でも驚いた。とにかく母親に逆らうと、もう半日も説教されるから、ただでさえ時間がないのに、もうますます面倒なことになる。だから、親には逆らわない、ぜーんぶ、嘘でごまかすということにしてきたんだ。

Q9要するに、自由がなかったということか?

完璧にやれば自由に出来たけど、完璧なんてあり得ないじゃん。だから、嘘ついて自分の時間を確保したんだよ。口で言って分かるような人じゃないからね、うちの母親は。何でも先回りして段取り凄いんだ、その段取り通りにしないと怒るし、その通りにすれば恩着せがましく感謝を要求してくるし、感謝が足りないと言ってすぐにすねるし、もう自分でも訳わからなくなるくらいに嫌いだったよ、母親のことが。もう心底、母親のことが嫌だったんだ。

Q10それが分かってすっきりして学校行けるようになったの?

無理、無理、無理。だって状況は変わらないんだもん。

Q11それじゃどうしたの?

大門さんが、親に反抗しろって。嘘なんかついてごまかさないで堂々と反抗しろって言ってさ。そいで、具体的にどうやって反抗するかまで教えてくれた。すっごく怖かったけど、小さいことから反抗していったんだ、少しづつ。うちの母親、しばらくものすっごく不愉快そうな顔してた。多分、大門さんからお母さんにも話が行ったんじゃないかな。ゲーム機やスマホを取り上げられるとか、仕返しもなかったので、だんだん大きな反抗が出来るようになった。それで、中3の4月からまた毎日学校へ行けるようになったんだ。そして、反抗できるようになると自分を許せるようになってきた。反抗できない時は、嘘ばかりついて自分はなんて嫌な奴だと心底、自分が嫌いだったんだけど・・・・・・・・。

Q12それで、今も反抗してるってわけ?

時々ね。でも、もう飽きたから手加減してる。学校の成績も下がったからね。少しは勉強しなくっちゃ。そうそう反抗ばかりしてられないよ。お母さんの愛情は今でも重いけど、もう気持ちの中では、母親のことは許している。自分のことを思ってくれていることに感謝もしているよ。それが分かったから、もうあんなに嫌な気持ちに苦しむことはないと思っている。

中2からカウンセリングに来たIさんとのインタビュー

Q1Iさんはいつから不登校になったのですか?

中学に入ってすぐです。

Q2原因は何だったのですか?

登校班のなかに意地悪な子がいて二三日休んだら、急に学校に行くことが恐くなってしまって、その時からずっと行けなくなってしまいました。 いま考えると、意地悪とか言ってもイジメとかじゃなくて、無視されたみたいな、返事をしてくれなかったみたいな、とても些細なことだったんです。 でも何かグラッと来て、朝、家から出られなくなりました。家から出られないと言うより、もう布団から出られなくなって、昼過ぎまで寝ているようになりました。 ひどいときには、完全に夜昼が逆転して、体調がもの凄く悪くなってしまいました。

Q3輝け元気!に来たのはどうやって?

お母さんがすごく心配して病院に連れて行ってくれました。二つの病院でカウンセリングを受けたのですが、両方ともダメでした。 一人は男の先生でちょっと恐いような感じがして聞かれたことにも答えられませんでした。 次の先生は女の先生で、はじめは優しかったのですが、そのうちに何でもないから学校に行きなさいって言われて、行けないと怒られるような気がして、けっきょく行けなくなってしまいました。 お母さんがネットで輝け元気!を見つけて大門さんと色々と相談していたみたいです。 そしたら去年の6月にひょっこり大門さんがうちに来てくれて、「こんにちは」って・・・・・・・・。 ほんとに5分くらいしかいなかったんですけど、そのあとメールで2回くらいやりとりして、それで行けるようになったんです。

Q4輝け元気!のカウンセリングでは何をやったんですか?

何をやったかと言われると困るのですけど、自分の性格のことや、人の性格のことや、そういう性格のことが中心だったです。でも、雑談しているような感じでした。もちろん、色々と勉強にはなりましたけど。 それと、呼吸法とか20分昼寝法とかやって、夜、お母さんと散歩に行くようになりました。それでだんだん夜眠れるようになって、そのうち朝ちゃんと起きられるようになりました。辛かったけど朝ちゃんと起きて、どうしても眠いときは20分だけ昼寝するんです。そうするとちゃんと夜眠れて、やっと昼夜逆転が直ったんです。

Q5それで学校に行けるようになったんですか?

いえ、まだまだでした。 昼夜逆転が直ったのが夏休みの終わり頃で、ディズニーランドなんかにも行けたんです。みんな休んでる時だったから外出も出来て楽しかった。 でも、学校に行くのはまだ恐くて全然ダメでした。 いま考えると、私は子供でぜんぜん自分が見つめられなかったし、自分がしっかりしていなかったから、何が恐いのかも良く分からなかったんです。 本当に何もかも恐くなって、急にまた落ち込んでしまいました。 秋にまたダメになって昼夜逆転が始まりました。 この時はほんとに辛かった。 学校がまた始まってみんなが学校に行っているのに自分はなんてダメなんだってつくづく自分が嫌になりました。

Q6では、何が登校できるきっかけになったんですか?

冬になって、大門さんと夏前にやった自分の性格のことが分かるようになったんです。 自分がもの凄く心配性で、学校のことも友達のことも塾のことも高校のことも将来のことも何もかも怖がっていることが分かるようになってきました。 特に、私はお父さんのことが恐くて何も言えなくて好きじゃなかったと言うことにも気がつきました。学校に行かなくなってからお父さんと話したことは一度も無かったです。話すことどころか、会うことさえ滅多になかったんです。 大門さんに言われて、ある時勇気を出してお父さんに話しかけたんです。 「おとうさん、私のことどう思ってる?」って。 そしたらお父さんは「とても心配している」って答えてくれたんです。 この時、自分の中で何かが変わったような気がしました。私は怖がらなくてもいいものを怖がっていたんだと思ったんだと思います。 勇気を出さなきゃと思いました。

Q7それで学校へ行ったんですか?

そうです。 冬休みの前に終業式にだけ行きました。 そしたら、まだ恐かったですけど、身も心も軽くなって、冬休み中、友達とも2回遊びました。 でも、また嫌なこともあって勇気がくじけそうになったんですが、大門さんにも始業式には「這ってでも行きなさい」と言われて、勇気を振り絞って新年の始業式に行きました。 そうしたらまた身も心も晴れ晴れとして、翌日も行けたんです。

Q8いまは順調に登校していますか?

まだ完全とは行きません。 でも、頑張っています。 大門さんからは、疲れたら休んで良いと言われてます。 でも、またすぐに春休みに入りますから、中3の4月からはきっと毎日休まずに通えると信じています。

Q9この1年、何が一番大切なことだったと思いますか?

自分に自信を持つこと。 心配性でいいんだと言うこと。用心深くて慎重で恐がりなのはとても良いことだと思えたことです。 そういう自分を見つめることが出来れば、かならず勇気がわいてくるということが分かったことです。 将来は、そういう自分を活かして、子供たちを勇気づけられる何かの仕事をしたいと思っています。

高機能広汎性発達障害の次男さんを持つさんちゃんさんからの手紙

大門様、
ご無沙汰しております。
2010年6月に「オープンカウンセリングルーム」で、当時中学2年の次男の不登校を相談しました。その時にアスペルガー症候群についてのアドバイスをいただいた者です。先日お陰さまでこの4月から息子は無事高校生になり、工業高校へ進学し毎日楽しく過ごしております。

しかし、これまでの道のりは大変なものでした。大門さんからアスペルガー症候群だと指摘していただき、以前かかっていた発達障害のお医者様に再診をし、中学校は特別支援学級で2.3年生を過ごしました。中3の1学期までは学習意欲もなく、修学旅行にも参加できませんでしたが、特別支援学級で友達ができたことで学校での居場所もでき、先生方の温かいご支援もあり、中2の2学期半ばからは殆ど休むことなく学校へ通学できました。

聴覚過敏の為に全校集会や音楽の授業、女の子の甲高い声を嫌がった為、息子の苦しみを理解した上で、嫌なことは無理強いすることはせずに学校生活を送らせました。ただこの2年間、私が息子に言い続けたことは、「お母さんはあなたが将来自分で働いて生活できる人になってほしい。だからこそ、そのためにゆっくりでいいから自分の将来について考えてみて。高校に進学するか義務教育を終えたら働くかそれはあなたの自由だよ。」と・・・・・。すると「高校に行きたい」と言いだしたので、たくさんの高校を見学に行きました。

そのうちに自分は数学が好きだし、資格を取りたいから工業高校に行くと言い出し、中3の夏休みから少しずつ勉強を始め、普通に受験して合格を勝ち取りました。その自信が今の息子を支えている気がします。とても明るくなり、私自身この数か月の息子の変化に驚くばかりです。卒業式はしっかり自分のクラスで参加でき、歌も歌い、あれほど人前に出られなかった息子が、卒業証書をもらいに全校生徒の前を歩いている姿に、私は涙が止まりませんでした。

今、学校ではものづくりの楽しさを感じているようで、多くの友人もでき順調すぎるほど順調ですが、息子が困った時にはいつでも手を差し伸べられるようにそっと見守りたいと思い、担任の先生や高校での発達障害の支援員の先生と情報交換だけはしっかりしています。長いトンネルを抜け春がやってきたのも、息子に寄り添い、焦らず、息子のペースで信じて見守り続けた結果だと思っています。規則正しい生活やわずかな繋がりでも友達関係は大切にした事、学校に行くということはあきらめなかった事、将来を考える事を続けたことがすべて今に繋がったと思っています。あの時、大門さんに相談して本当に良かったです。本当にありがとうございました。

現在、私自身保育士として発達障害の子供たちの支援をしていますので、この経験を生かして悩んでいる保護者のサポートもしていけたらと思っています。今、保育園で発達障害の支援をしていて、親が一番の理解者であることがやはり大切なのだとひしひしと感じています。それは発達障害に限らずどの子供に対しても同じだと思います。私自身、3人の子育てをして来まして、逆に親としての自分も子供達に育ててもらいながら、悩み、工夫してここまで来ました。特に発達障害を抱えた次男については、「何かが違う」と感じたのが3歳くらいの時だったので、色々な人の助けを借りながらの試行錯誤の子育てでした。しかし、先日、高校の発達障害支援員の先生に、今まで息子とやってきた様々なことが、全てプラスに働いていたことを指摘され、本当に良かったと思いました。逆に、幼児期から弱い部分をサポートして伸ばしてきたために、中学生までアスペルガー症候群の診断がつかなかったともいえるのですが・・・。

今日も息子はクラスマッチがあったと言って帰ってきました。中学の時は全く参加できなかったクラスマッチなので、私はとても嬉しいです。本当に毎日生き生きとしています。工業高校と言う事で、学習することが専門的でとても面白いようです。学習する目的も見いだしやすく、結果もはっきりしているので、息子にはとても合っているように思います。

親はついつい子どもに理想を重ねがちですが、子どもが自立できるようになる為には傍で立って見守ることが大切だと思います。理解して傍で見守り、必要な時は手を差し伸べ弱い部分をサポートする・・・・・、そして、弱みもある代わりに大きな強みもあることを忘れずに、それを大いに褒めていく・・・・・、難しいですが、今までの子育てで私が学んだ事です。また、普通学級、普通高校にこだわらずに、特別支援学級から工業高校へと言う選択が、次男の生き生きとした毎日の土台になっています。この土台はきっと次男が社会に出て自立して行く時にも、しっかりと次男を支えてくれることでしょう。

私の子育てを、何かの形で参考にして頂ければ、こんなに嬉しいことはありません。

中3から輝け元気!に通ったH君からの手紙より

僕は中1の秋から心身ともにおかしくなって、高1の秋までほとんど3年間、学校に行けたり行けなかったりを繰り返しました。

私立の中高一貫校に入ったので最初のうちはその影響かなと思っていました。というのは、中学受験の疲れが出たり、第一志望に落ちて第2志望の中学になったからなのかと思いましたし、自分でもそう思おうとしていました。 とにかく中学に入る前には一日7時間半くらいで間に合っていた睡眠時間がどんどん長くなり、一日11時間以上、ひどい時には丸一日眠ってもまだ眠いという状態で、ともかく朝目が覚めないのです。 大門さんのところに通ったのは、欠席日数が多くて高校への進学が厳しくなった中3の秋からです。学校側のお情けで何とか高校に進むことは出来たのですが、夏休みまでの前期にほとんど登校できない状態になって、高1から高2への進級は我ながら絶望的だと思いました。 大門さんと色々と話すうちに自分には母親に対する異常な甘えと嫌悪感、はっきり言ってしまえば異常な甘えと憎しみが混在していて、どちらの自分も認めることが出来ないということが分かってきました。 どちらの自分も認められないし、甘えと憎しみの両極端に自分が切り裂かれているのだということが分かってきました。

うちは昔から共働き世帯で、父は僕が小学生のころから何回か転職を繰り返し、僕が小6の時にサラリーマンを辞めて自営業を始めました。 父と母は仲が悪く、何かというと母が父をバカにして公然と父の転職を非難していました。母はいわゆるキャリアウーマンで自分は転職を重ねる度に出世して指導的な立場になって行くことを自慢し、父は逆に転職の度に収入を減らしていると愚痴を言っていました。 母は、子供達の前で公然と父をバカにしたり、更に悪いことには、父のいないところで父の悪口を僕たち兄弟に吹き込んだりしました。それなのに、旅行する度にホテルのトイレットペーパーを持ち帰ったりするので、父がいけないことだと言うと、逆ギレして「清く貧しくなんてゴメンなのよ」と怒鳴り返すような母でした。僕たち兄弟には、「馬鹿正直にやっていたら生きてなんかいけないんだからね」と繰り返し言い聞かせるような母親でした。 いま思い返すと、父は中1の秋から僕を大学病院や漢方医に連れて行ってくれたり、いよいよ原因が分からないとなると精神科に連れて行こうとしました。僕は激しく抵抗しましたが、高1の5月には学校に欠席を連絡することも出来なくなり、目が覚めた後も何時間も放心状態で、何も感じることも考えることも出来なくなりました。 どうにでもなれと思って精神科に行きましたが、思春期うつ病で、それに効く薬がないからカウンセリングを受けろと言う話になり、何回か父の送り迎えで通いましたが、そのカウンセラーとはとうとうまともな話は一度も出来ないまま終わりになりました。

中学時代からの友人が心配して電話かけてきてくれたりしたのですが、その時は嬉しく話が出来ても、電話を切ると猛烈に苦しく悲しくなり、壁を何回も殴って指を3カ所も骨折しました。 あの頃のことが良く思い出せないのですが、父が大門さんを家に呼んでくれたのだと思います。 いきなり「H君、生まれてきて良かった?」と尋ねられたのです。何も答えられなくて、でも泣き声だけがこみ上げてきました。父も泣いていました。大門さんは何か明るく笑いながら何かしゃべっていましたが、大門さんも泣いていました。 それから父のこと、母のこと、何より自分の事が良く分かるようになり、考えたことを言葉に出来るようになりました。というより、ちゃんと感じられるようになったという方が正しいと思います。 母から旅行に行こうと誘われてもきっぱりと断ることが出来るようになり、母に対して自分の軽蔑や憎しみを言葉で投げつけられるようになると、怒りが軽くなるのが見えるように感じました。 幼かった僕には父の愛情は見えず、母の愛情が欲しかったのだと思います。だから、母に甘えるために母を否定することが出来ませんでした。

大門さんは「君のお父さんの君に対する愛情は強くて深い。お母さんの愛情はエゴで愚かだ。けれども、その強さ深さはお父さんと変わらない」と良く言いました。 今は母と普通に話をするようになりましたが、今でも話していて母に対する軽蔑の念が湧いて来ることがあります。自分では、この軽蔑の念こそ母から乳離れした自分の証のように感じるのですが、父はこのことを言うとあまり喜びません。母がいなかったら僕も弟もいなかったのだからと言います。 大門さんは、愛も憎しみも尊敬も侮蔑も同じこころに同時にある、それが混在していて揺れ動くのが人の心で、その動きを見つめ感じられることが大切だと言います。 とてもその境地には行きませんが、いま高3で大学受験に取り組めている自分を素直に喜びたいです。大門さんと父母に感謝していますが、去年の4月に高1から高2へ上げてくれた学校にも感謝しています。 たぶん第一志望に合格していたら僕のような落ちこぼれは相手にしてもらえなかったと思います。 良かったか悪かったかなんて、その時には分からないのだとつくづく思います。来年の大学受験も同じで一生懸命やるだけやって受かったところに行けば良いんだと割り切って考えられるようになりました。 苦しかったこの経験を活かせるように生きて行きたいと思っています。

高3から輝け元気!に通ったGさんのインタビューより

Q1いつから不登校になりましたか?期間は?

高3の5月から不登校になりました。学校が善処してくれたおかげで、別室で定期試験を受けレポートを提出し補習を受けることで何とか高校は卒業しましたが、実質的に3年間、不登校でした。 輝け元気!には高校3年の夏休みから通い始めて、カウンセリングを3年近く受けたことになります。

Q2不登校になった原因は?

中学時代を通してずっといじめを受けていました。そのため中学校では声が出なくなりました。家族も、もちろん学校の先生も助けてくれない中で、このいじめに耐え抜いてしまったのがこころの大きなダメージになりました。でも、そのダメージがすぐに出たのではなく、希望の高校に入り中学時代とは打って変わって本当に楽しい高校生活を送ることが出来ていたのです。 ところが高3になって些細なクラスメイトの意地悪にあって、過呼吸の発作やフラッシュバックが起こるようになりました。中学時代と同じになったらどうしようという恐れから逃れられなくなって、人が信じられなくなり対人恐怖症になりました。 この時から3年間、ほとんどすべての神経症の症状が出て、最悪の時には傘を二本両手に持って杖代わりにしないと歩くことが出来なかったときがあります。自律神経がおかしくなって、歩くためのバランスが取れなくなったのです。 カウンセリングを続けるうちに、一つの症状がよくなって、でも、しばらくするとまた次の症状が起こるという経過を繰り返しました。 大門先生も首をかしげるようなことの繰り返しでしたが、やがて私自身が家族関係の中で一種のアダルトチルドレンだったことが次第に分かってきました。わたしは小学校1~2年まで「私だけに見えるお友達」がいて、トイレなどに入っては良くそのお友達とお話をするような子どもでした。やがてそのお友達は現れなくなりましたが、気がつくとお風呂場で倒れている自分に気がつくというようなことが中学校時代までありました。 幼い頃から家族の現実をどうしても受け入れることが出来なかったのです。そのために家族のいい面だけを見て、自分にとって耐えられないことは「私だけに見えるお友達」にお話しすることで済ませていました。みんな無意識にやっていたことでしたが、これがわたしの対人関係を根本的に狂わせていました。 これが、不登校というより私のこころの病気の原因でした。

Q3いつ頃がいちばん辛かったですか?

カウンセリングが始まってからはどんなに落ち込んでも大門先生に支えられているという感覚があったのですが、不登校になりたての時期は本当にいちばん辛かったです。一瞬一瞬の人生に疲れ、生きるのが嫌でした。真っ暗闇の中で辛さに耐えているか放心状態になっているかのどちらかでした。家族との会話が辛かったです。何か言われたり聞かれたりするだけで涙が溢れ泣いてばかりでした。「自分はなんてダメなんだろう、わたしはいつでもどこでも家族の足手まとい、その上こんな病気になってもうどうしようもない」と自分を責め続けました。

Q4輝け元気!のカウンセリングで良かったことは?

この春大学に入学して福祉関係の勉強をしていること。一生懸命勉強に打ち込んでいること。高校時代のようにこころに闇をかかえずに友達関係を楽しんでいること。要するに、普通にしていることの素晴らしさ。たとえば、朝起きて支度して、駅に小走りで行って満員電車に飛び込むときの幸せ感。 カウンセリングを受けてきたのですが、大門先生には勉強を教わったような感じがします。心理学だけではなく哲学関係のいろいろな勉強をさせてもらったと思っています。それから科学的なものの見方とか考え方とか、勉強になったし面白かったです。 自分の中で普通のことが必ずしも普通のことではないと分かってから、自分の本当の気持ちに気付けるようになりました。今まではいつも自分の気持ちが分からなかったんです。 それから家族のことがよく分かりました。親としてより人間として見られるようになりました。血は繋がっていても魂は別なんだということが分かって、正直ほっとしました。 思えば、3年間を通じて家族関係が劇的に変わりました。わたしだけでなく父も母も兄弟も大門先生の影響を受けて変わりました。本当に家族ぐるみのカウンセリングだったと思います。 わたしにとって家族は本当に大切になりました。自分はそれほど強くない、人と一緒に生きていかなければならない、そのことが分かって素直に嬉しいです。 家族だけでなく、友人関係の中で勇気を持って自分の真実を貫き拡げていきたいと思っています。

Q5呼吸法のトレーニングはどうでしたか?

わたしは我ながら瞑想のセンスはあると思います。苦しくて瞑想なんか出来ないという時期が何度もありましたけど、今は自分の心の奥底に静かな場所があって、いつでもそこで「わたしの神様」に出会うことが出来るようになりました。出会うだけではなくもちろん話も出来るんですよ。いつも自分に対して肯定的で支援的で、結果よりプロセスを重視してくれる存在です。すべてに答えてくれるわけではありませんけど、答えてくれないときにはそのことにも意味があるんだという感じがするので、辛いようなことはありません。このことで、本当に、人から見えること、つまり外見として目に見えることから人や自分を評価することが無くなりました。

Q6これからの計画は?

大学を卒業して、わたしと同じ不幸を背負った子ども達を救いたい。わたしが育ったような家庭ではない家庭を築きたい。そしてその家庭を味わいたい。もっともっと愛のある人になりたい。人の力になれる人になりたい。

Q7同じように苦しむ人へ一言

試練を受ける人は選ばれた人。何か重大な意味があるからこそ、その苦しみがやってきた。自分の経験から言えば、専門家にかかることをためらってはいけない。勇気を持ってこころのケアを受けて欲しい。早く治療を受けて、早く元気になって欲しい。あなたは社会に貢献が出来る人、そうする資格がある人。将来において誰かを助けることが出来る人。誰かがあなたを待っている。

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